ジャーナリングとは、心のかたちをなぞることである

コラム

ジャーナリングって、意識高い系のひとか、地球温暖化に反対する環境保護団体系のひとがやるものだと思っていた時期がわたしにもありました。ごめんなさい。

わたしがジャーナリングを始めて3か月が経ちました。続いてますね。続いているということは、わたしにとって意味があったということだと思います。

毎日30分、自分の心のなかにあることを言語化します。つまり実際に文章として書き出してみるのです。それで何が変わったか。

明らかに日々のストレスがなくなりました。

ジャーナリングを始める前までは、なんだかわからない漠然とした不安というか、不満がありました。自分でも正体がはっきりしない謎の感情がいつもあったのです。

そのせいでイライラしたり、気が短くなったり、憂鬱になったり。感情のコントロールに苦労することが多かったです。

これは、わたしが若いころから悩まされていた現象です。振り返ってみると、小学生や中学生のころから感じていたものかもしれません。

自分がいったいなにをやっているのか、どうしてこんなところにいるのか、ほんとうにやらないといけないことがほかにあるのではないか、といった焦りにも似た感情です。

歳をとったいまでも、そういうことがときどきあります。なにもかも放り出したくなるような時期が定期的にやってくるのです。

それが、ジャーナリングを始めて、ピタッとなくなりました。この数か月、わたしを長年悩ませていた感情が消えてしまったのです。ただ単に、自分の心のなかにあることを、文章にして書いているだけなのに。

読み返してみると、つまんないことを書いていたり、毎日同じことを書いていたりします。でも、そこには正直ないつわりのないわたしがいます。それが不思議に心を落ち着かせるのです。

文章化、言語化することに、なぜこんな癒し効果があるのでしょう。

それは、ジャーナリングは、自分の心のかたちを文章という筆でなぞっていくプロセスだからではないか、という気がしています。

心というのはかたちにすることができません。触れることも目にすることも本来はできないものです。しかし、文章を使うと、その形を浮かび上がらせることができるのです。

人間は見えないもの、わからないものに接すると、不安になったり恐怖を覚えたりするものです。わたしが過去、つねにとらわれていた感情は、それが原因だったのではないかと思うのです。

自分の心のありか、かたち、そのうつり変わりがわからない。わからないから不安になるし、焦りも生まれる。

ジャーナリングをすることで、それが目に見えるようになりました。具体的なものとして感じられるようになりました。

自分はこういうことを考え、こういうふうにものごとに反応して、こんなふうに心が移り変わっていくのだ、ということが日々見えると、自分が何者であるのかがわかったような気がします。わたしを見つめる、もうひとりのわたしがいます。

もしかすると、noteを書くという行為も、同じような効果を生んでいるのかもしれません。ジャーナリングとは別の形ですが、普段思っていること、感じていることを文章にしているわけですから。

ジャーナリングほど剥き出しにはしていないけれど、わたしの心のかたちを言語化して、みなさんに提示しているのです。そう考えると、ちょっと恥ずかしいような気もしてきました。

文章を書くという行為は、小説にしてもエッセイにしても、自分というものをどれだけさらけ出せるかで、その中身が決まるといわれています。

ジャーナリングは自分の目にしか触れないものです。それだけ、究極的に自分をさらけ出したものといえます。まさに、なまの心のかたちなのです。

なまの自分の心、素の心と向き合うのは、それなりに勇気のいることかもしれません。でも、わたしは、もっと早く、それこそ学生のときから始めておけばよかったと、正直後悔しています。

わたしのように、漠然とした想いに悩まされているかたがおられれば、ジャーナリングは試してみる価値はあると思います。

紙の手帳でも、iPhoneのApple純正ジャーナルでもいいです。高価なツールやソフトウェアは必要ありません。まずはわたしのように始めて、効果を体感してみてはいかがでしょう。

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