最近リビングで文章を書くとき、KING JIMのポメラDM100を使うことがあります。これを買ったのは、10年以上前になるのではないかなと思います。文章を書くのに使うデバイスがパソコンだったりiPadだったり、私の興味の変遷に合わせて使ったり使わなかったりしていますが、今でも現役で動きます。

最新のポメラDM200に手を出そうとしたこともあります。しかし、何度かポチろうとして果たせていないのは、MacBook ProやiPadがあるからというよりも、このDM100がまだ使いものになるからです。実際、電池の保ちといい、キーボードのできといい、軽快なATOKの日本語変換も、全くストレスを感じさせません。先日も何年?かぶりに使おうとしたら電池が切れていましたが、乾電池を交換するだけで普通に使えています。
改めてDM100を使って書いてみると、文字入力専用機というのは手書き執筆に似ている部分があると感じました。パソコンやiPadで書いていると、分からないことをググって調べたり、その都度知識をネットの力を借りて補填しながら文章を書いている自分がいます。
しかし、DM100で書いていると、それができないので、あれってどういう用例だっけ、漢字はこれで正しいのだっけ、この歴史的事実はあっているのだっけ、とか考えながら書いていくことになります。 この感覚が、手書きの執筆と非常によく似ているのです。
もちろん、DM100の場合でも手書きの場合でも、辞書やパソコンで別途調べることになるのですが、ぱっとそういう情報が得られないことが、ストレスというよりも、むしろ文章を書くことそのこと自体に集中力を生んでくれます。 まぁ、あとでまとめて調べればいいか、とか、とにかく文章として書き上げてしまってから考えればいいや、という感じになります。
そこで、はたと気付いたのですが、DM100や手書きで文章を書くと、それを推敲する、ファクトチェックをするということにしっかり時間をかけていました。パソコンやiPadでももちろん推敲はするのですが、推敲にかける度合いというか、重みが異なるのです。
パソコンやiPadで用語や情報を確認しながら書いているときは、推敲はどちらかというと文章のリズムとか文法とか、誤字脱字をチェックするだけで、執筆プロセスの中ではサブ(副)の位置づけにあります。しかし、DM100(手書きの時もそうですが)では、推敲が情報や知識の再確認、より深堀することに使われます。辞書を読みふけったり、ネットの関連文書を追いかけたり、推敲自体が特別なプロセスになるようです。
執筆のスタイルとしてどちらが正しいのかよく分かりません。ただ、実際にやって比べてみると、DM100や手書きのときの推敲の方が文章を書いたあとに身に付く知識とその深さが全然違うように感じます。これは新しい気付きでした。
ネットやAIは私たちの第2、第3の脳味噌として活用することができます。でも、その分、生身の脳味噌自体の質は落ちているのかも知れません。漠然とそういう不安を日頃から感じてはいましたが、今回久しぶりにDM100という執筆専用の、いわばワープロ的なデバイスを使ってみて、その生身の脳に流れ込んでくる情報の量と質に驚かされたというのが正直な感覚です。普段使っていない脳の場所が使われた感覚といってもよいでしょう。
この感覚はちょっと癖になるおもしろいものなので、しばらく執筆、文章を書くという行為自体はDM100でやってみようと考えています。DM100はEvernote経由テキストを取り込むことができます。今私はEvernoteを使っていないので、その恩恵は受けられませんが、このデバイスはおもしろいことにテキストデータをQRコード化して他のデバイスに取り込むということができます。このテキストも、QRコードをiPad miniのカメラで取り込んで清書し、noteに公開したものです。
いま、DM100が販売されているのかどうか分かりませんが、最新のDM200でも同様の体験ができると思います。ワープロ専用機自体はいまでは死語になっています。しかし、じつはまだまだ人間にとって必要なデバイスなのかもしれません。執筆という行為がマンネリ化しておられる方は、一度試してみてはいかがでしょうか。