納得できない、という病

コラム

火曜日に東京から福岡に帰ってきた。30年近く居た場所だが、特に想いや未練はなかった。むしろ、早く福岡に帰りたいと思ったくらいだ。

ただ、帰ってきて以来、なんとなくやる気が出ない。今月萩に行くのが月末になりそうなので、それがストレスになっているのかも知れない。

このモヤモヤ感は、別に今回始まったものではない。もう、かなり昔から、もしかしたら、子供のころから抱えている感情かも知れない。それは、本来やるべきこと、やりたいと思っていることができていないことに対するモヤモヤなのだ。

もっと率直に、具体的に言うと、サラリーマンをやっている自分と、物を書いている自分のギャップだ。本当は子供のころから創作、特に物を書いて生きていきたいという想いを抱えながら、実際はサラリーマンを30年以上やってきた。そのギャップが私のモヤモヤの原因だ。

最近のエッセイで、私は一生サラリーマンをやっていきたい、と書いたが、それは正直な告白ではない。文章から感じとっておられた方もいるかも知れない。それは虚勢だ。今までの人生の正当化である。

サラリーマンと物書きは、相反するものではない。サラリーマンをやりながら物を書いている人はたくさん居るし、兼業作家も多い。

頭の中では、二足のわらじの合理性は理解している。どう考えても、経済的にもその方が安定している。また、以前「評価される仕事こそが天職だ」ということも書いたことがある。天職は自分で決めるものではなく、他人が決めるものだという議論だ(これもよく考えると後付けの正当化かも知れない)。

しかし、合理的に考えて頭の中で結論が出ていることについて、漠然と納得していない自分がいるのも確かだ。理由はいくつかある。

ひとつは、今の仕事についてのギャップだ。仕事で困っていることは特にないし、それなりに評価を受けていて、得意な分野でもある。しかし、全力を出すと周りが付いて来られない。以前も書いたが、私は真剣になって集中すると圧迫的になり怖くなるらしい。周りに迷惑をかけたくないので、かなり力を絞って仕事をしている。これがとてつもないストレスになっている。

もうひとつは、人間関係だ。私は表向き人付き合いが良いように見せているが、実は人付き合いが嫌いだ。もっと率直な言葉にすると面倒くさい。協調することもできるが、かなり無理をしている。それ自体がストレスだ。一人で完結する仕事であれば、全力を出せるし、できればそうしたい。

みっつめは、やはり「職業作家」という言葉への憧れがあるだろう。小学生が「将来野球選手になりたい」と言うのと同じだ。理屈ではない。どれだけの野球少年が(自分の才能はさておき)大谷翔平みたいになりたいと思っているだろう。それと同じだ。

このモヤモヤ、言葉を換えると閉塞感と言っても良いと思うのだが、この正体は何か。この文章を書いている今でも結論が出ているわけではない。しかし、もしかしたら、変わらないことの恐れでもあり、変わることへの恐れ、であるのかも知れない。

つまり、変わらないことについて不満があり、フラストレーションもたまっている。同時に、変わることへの不安があり、リスクへの恐怖があるのだ。それが同時に存在しているところにモヤモヤ、閉塞感があるのではないだろうか。

論理的、合理的には解決済みのことについて、情緒的、心情的に解決していないということは、人間である以上良くあることだ。恐らく、この問題は私が死ぬまで解決しないだろう。だから悩んでもしょうがない。でも、悩んでしまう。

いずれにしても、今日も私は物を書いている。モヤモヤしようが、閉塞感に悩まされようが、書く。少なくとも書いている間はそのモヤモヤがなくなるし、閉塞感も感じないのだから。

書くことで、私はこのモヤモヤと付き合い続けていく。

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