今日、9月25日は私の誕生日だ。60歳、還暦になる。
還暦というと、思い出すことは2つある。1つは、父の還暦の時の想い出。もう1つは、元上司の還暦のことだ。
父の還暦はもう30年近く前になる。私はまだ駆け出しの商社マンだった。
何故私がこのことを覚えているかというと、ちょうど父の教員生活最後の日に立ち会ったからだ。
細かい話をすると、日本の公立学校教員の定年退職日は定年年齢に達した年度の3月31日だ。父は8月生まれなので、還暦を迎えたのは8月だが、実際の定年退職は翌年の3月末ということになる。私は父の定年退職のタイミングに合わせて郷里に帰り、父の最後の勤務を見届けた。
当時父は私の母校である中学校の校長をやっていた。何年かぶりに訪れた母校で、しかし一度も訪れたことの無い校長室で、私は父と会った。父は執務机についていて、最後の仕事をしていた。
全ての業務を終えて、父は立ち上がった。そして私たちに向かってはにかんだ。父のはにかむ顔を初めて見た。そして、そのあとの表情。全てから解放されたような、1つのことをやり切った充実感に満たされたような。その時の父の晴れやかな顔が忘れられない。
父は、その日を境に、一切教育界から身を引いて、一度も公の場所に出ることはなかった。
上司の還暦はほんの5、6年前のことだ。ご縁があって20年近く一緒に仕事をさせてもらった人だが、私が還暦祝いパーティの幹事をした。
上司の奥様から連絡があったのは、彼の誕生日の3ヶ月ほど前だった。還暦祝いパーティの準備を手伝ってほしいとのことだった。私は快諾した。
パーティは極秘に準備され、上司本人には一切知らされていなかった。表向きは奥様と2人のディナーということになっていて、私たちは港に係留されたヨットの中で待機していた。上司はヨットが好きで、毎年夏になると野尻湖に私たちを呼んで、キャンプとヨットを楽しませてくれた。お祝いはヨットの上でやろうということになった。
真っ暗な海に上司が連れてこられた。街灯に浮かぶ怪訝そうな顔を今でも覚えている。
上司がボートの中に入ると同時に派手な電飾が点灯し、待ち受けていた出席者たちがクラッカーを鳴らす。その時の上司は本気で驚いていた。20年一緒にいて、いろんな修羅場も潜ってきたが、彼の愕然とした顔を見たのはその時が初めてだった。彼の驚きの顔は、それまでに見た中で最高の笑顔に変わっていった。
自分は今、どんな顔をしているのだろう。父のように、晴れやかな顔をしているだろうか。それとも、上司のように笑顔になっているだろうか。
この60年、いろいろなことがあった。5度の転職、1度の結婚と離婚。当時は必死だったが、今になってみると人生の危機と思われるようなことも多々あった。転職で人に出会い、キャリアを積み、最初の結婚は私の未熟さゆえに失敗したが、今は新しい相方に恵まれている。それもこれも、人の縁、地の縁、猫の縁でなんとか乗り越えることができた。
私は人間関係には恵まれた。どの上司も素晴らしい人たちだったし、部下たちもかけがえのない同志だった。住む場所にも恵まれた。今は萩という愛すべき町に住むこともできている。愛猫たちにも恵まれた。喜与、五輝という亡くなった猫たちはこの10年私を支えてくれた。歩と七海は今の私を支えてくれている。
そういう意味では、父のように晴れやかな顔はしていないかも知れないが、充実した60年だったし、元上司のような笑顔では無いかも知れないが、今の生活は笑顔で送れている。
そして、何よりも、いま黙々とこんな文章を書くことができている。淡々と、ただ、テキストをキーボードで打っている。
もしかしたら、それこそが私らしい還暦の迎え方なのかも知れない。大好きな文章を書きながら、テキストを打ちながら、60年目の誕生日を迎えることができたことが嬉しい。そして今後も文章を書くことが出来なくなるその日まで、何かしら文章を書き続けていきたい。
それが、私の還暦だ。人は還暦で子供に戻るという。1から人生をやり直すのだ。新しい人生を文章を書きながら、物語を紡ぎながら生きていけたら、こんな幸せなことはない。
還暦を迎えて人生を振り返る人は多いだろう。ここを区切りとして引退する人もいらっしゃるだろう。
しかし私は、振り返るだけで終わりたくない。この60年は1つの時代の終わりだ。確かに1つの人生の幕が終わった。しかし、次の幕がもう開いている。私は既に歩き始めている。今日という日は、終わりの日ではなく、始まりの日なのだ。