ここ数日、どうも調子が悪くて仕事をする気が起きない、仕事どころか身の回りのこともやる気が起きない、という状態になっていると、昨日書きました。今日は、まだマシなのですが、まだ完治していないように思います。
朝の散歩は行きました。そうして、noteも、ちょっといつもより時間が遅くなりましたが、書けています。「習慣」になっていることは、頭や心の状態とは関係なく、やはり身体が動いてくれるようです。しかし、なんだかスッキリしないのです。
もやっとした状態のまま今日の仕事を開始して、今朝になってふと気付いたことがありました。8時半から、昨日のお客様訪問について、次のアクションを検討する打合せを営業さんとしました。メインの議題が終わって雑談になり、最近わたしの仕事の負担が重いことが気になっていると言ってくれたのです。
言われて初めて、ああ、仕事の負担、重かったんだ、と気付きました。若いときから少々仕事の量が多くても、それなりに力尽くでも片付けていたわたしですが、そろそろ年齢がそれを許してくれなくなってきたようです。自分で自分に負荷がかかっていることに気付かないというのも、歳のせいでしょうか。
よく、お年寄りが熱中症で亡くなるニュースを観ますが、だいたいがエアコンを付けていなかったり、暑い中外出していたりしています。なんでだろうと不思議だったのですが、理由が分かりました。鈍感になっているんです。五感にも、反射神経も、身体の機能も。だから、わたしも仕事で負荷がかかっていることに気付かずに仕事をしてしまっていたのではないでしょうか。
その営業さんからもうひとつ言われました。先日のデモンストレーション、正子さんとしては、何点だと思っています? と。わたしは70点かな、と答えました。個人的にはもっとお客様の状況に即した、お客様の言葉になるようなデモを作りたかったと。それに対して彼は、こう言いました。我々にとっては100点でしたよ。お客様も分かりやすくて、これであれば自分が使いこなして結果を出せると上申できる、といってくれてたじゃないかと。
そこでもう一つ、気付きがありました。わたしはそれほど完璧主義者というわけではないですが、やはり事前に想定していたとおりに物事が進まないとストレスが溜まるタイプです。自分の要求のままに質を求めるあまり、お客様や営業さんを置き去りにしていたのではないか、そんな風に思ったのです。
自分の凝り固まった先入観、思い込み、自分の建てた虚構の城の中で、わたしはひとり彷徨って、嘆き悲しんでいたのではないか。振り返って見れば、萩に行く前から、相方以外の人間と一度もリアルで会っていません。オンラインでのミーティングではもちろん話はしていますが、直接話すという機会がなかったのです。
もしかしたら、これが原因かもしれない、と思いました。人と会わないことが問題なのではなく、気付かないうちに自分の作った迷路に自分で迷い込んでしまっていたのではないかと気付いたのです。と同時に、わたしの基本的な考え方である、丁寧に生きる、ということもできていないと気付きました。
ありもしないものを作り上げるために足掻いて、藻掻く余り、手元が疎かになり、足元の一歩一歩がふらついているのです。今日の営業さんとの話で、我に返った気分です。リアルであろうと、オンラインであろうと、人との接触を大事に、丁寧にしなければなりません。作っている資料はお客様のビジネスを左右するかもしれない資料です。こころを込めて作らなければなりません。
成果物の質は、自分ではなく、お客様が、営業さんが評価してくれます。自分は、自分の心に背かないように、しっかりとプロセスを積み上げていく。手元、足元を見て、丁寧に生きていく。それを改めて、やっていかなければならないな、そう考えさせられました。
そう考えると、習慣にしていることが心の糧になっていた理由も明らかになります。散歩にしろ、noteの執筆にしろ、一歩一歩丁寧に歩き、一打一打丁寧に文章を書き上げる。いまわたしがやらなければならないことが、身体の方が覚えていてやっていたわけです。それ以外のことも、同じようにやっていけば良いのです。それをしっかりと意識して、今日も仕事をして、執筆をして、相方のゲームプレイを眺めることにします。
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