わたしは何故文章を書くのか、そして小説を書くのか

コラム

わたしは毎日文章を書いています。noteにエッセイもどきの文章や、公開はしていませんが小説も書いています。時間にして、1日に3時間、長いときは、5時間、ずっと書き続けていることもあります。

わたしは何故文章を書くのでしょうか。単に文章を書くことが好きだということはもちろんあるのですが、もうひとつ、大事な理由があります。それは、「正気を保つ」ということです。

わたしは、人間というものは実に不安定なものだと思っています。いつ道を踏み外してもおかしくないし、気が狂ってしまってもおかしくないと。自分が明日今の自分と同じという保証はありませんし、ちょっとホルモンの調子が狂ったり、何かの脳内物質が出過ぎたり足りなかったりしただけで、何をしでかすか分かりません。

世の中には確かに犯罪者という人たちはいて、確信して犯罪を行っています。しかし、世の中で起きる犯罪の半分以上は、実はそうでない人たちによって行われていて、わたしもいつそちらの仲間入りをするか分からないのではないか、と思っています。

わたしが文章を書くのは、そういった自分の安定性を保つためです。自分の考えていること、感じていることを言語化する、文字化するという行為は、わたしにとって自分を整える、コントロールすることと等価です。すなわち、わたしが精神的な安定性、心理的な均衡を保つために必要なことなのです。

人によっては、自分の安定性を保つためにお酒を飲んだり、煙草を吸ったり、意識しているかどうかはともかくとして何らかの行動をとっていると思います。わたしにとって文章を書くことはそういうことなのです。

もうひとつ、何故わたしは小説を書いているのか、ということについてもお話ししましょう。小説を書くという行為は、文章を書く行為の中でも特殊だと思っています。それは、明確に「読者」という存在がいなければならないことです。読む人がいない小説は小説とは言いません。

読まれるかどうかも分からない長編小説を何故わたしは書いているのか。以前は、文章を書くことが好き、ということの延長線上にあると思っていました。しかし、最近は、どうやらそれだけではなく、もっと心の奥深いところ、魂に近いところに理由があるのかもしれないと思うようになりました。

わたしは、昭和40年生まれです。この世代は、親の世代が高度経済成長期のまっただ中にいたこともあって、その恩恵を十二分に受けている世代です。わたしよりも少し上の年齢の人はバブル期も堪能したでしょうし、社会人になったときにはバブルが崩壊してしまったわたしでも、非常に恵まれた人生を送って来られたと思っています。

例えば、わたしは永らくIT業界にいますが、わたしが社会人になってすぐにWindowsが誕生し、システムのダウンサイジングの波が訪れました。そこからインターネットの時代が来てオンプレミスのシステムからクラウドへ、大きなシフトチェンジが起きました。また、最近ではAIの急速な発展でかつては高コストであったAIの活用が日常的なものになりました。

ITをとってみても、変化は大きかったですがその恩恵を十分に得ることができました。おそらく、わたしたちの世代はそれ以外の分野でも同じことが言えるのではないかと思います。

しかし、わたしの頭を常に離れないのは、いまの世界、社会を見てみると、果たして良い時代になっているのだろうかという根本的な疑問です。わたしたちの世代は、受けた恩恵を、きちんと社会に還元して、30年前よりも良い時代、良い世界にできたのだろうかと、ニュースを見るたびに思わざるを得ません。

わたしたちは、もしかしたら、メリットを享受して消費しただけで、それを後の世代に還元できていないのではないか。そういった根源的な疑問と罪の意識が常に心のなかにあるのです。現在の世界情勢は30年前よりも不安定化して混沌としています。日本の社会は若者の貧困化が問題になっていて世代や収入による社会の分断も起きています。わたしたちが、そういう世界にしてしまったのではないかという罪の意識です。わたしにとって、小説を書くという行為は、この罪の意識を「贖う」行為に他なりません。

文章が書くことが好きだから書きます。正気を保つために書きます。そして罪の意識を「贖う」ために、小説を書きます。わたしはこれからも死ぬまで何かしら書き続けていくのだと思います。

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