4月もなかばに入ってきました。夢や希望、いろんな想いを胸に新しい生活を始めた方も多いと思います。今日は、そんなみなさんへ、すこしは足しになるお話しができれば、と考えています。
わたしが大学に入ったのは1984年の春でした。大分の高校を卒業し、単身東京へ出てきて、大学の寮には入れなかったので下宿を探し、身の回りを整えたときにはもう入学式になっていました。
わたしはどちらかというと受験勉強を真面目にやらなかった人間なので、大学に入ってから大変苦労しました。最初の1年は英語漬けの日々でした。2年目から英語による授業が多くなるため、それについていけるように、1年生のうちに徹底的に英語をやるのです。
わたしは高校時代、英語が苦手でした。文法も英作文も嫌いで、唯一リーディングと当時は言っていましたが、読むことだけは辞書をひきひき、なんとかなっていたレベルでした。
そんなわたしがいきなり英語だけの生活に放り込まれたのです。訳がわかりません。朝から晩まで英語漬け。ゼミも試験も英語です。東京にひとりですから、逃げるところがありません。とにかくついていくのに必死でした。
そんなわたしの心の安らぎどころは、3つあって、1つは読書。英語漬けの授業が終わると、夕方から図書館にこもって「日本語の」本を読みまくりました。英語ばかりやらされることで日本語に飢えていたのです。
2つめは映画です。映画といっても映画館で観るわけではありません。そんなお金は貧乏学生にはありません。大学の視聴覚センターに行って、録画された映画を観るのです。
当然、古い映画ばかりです。洋画であればハリウッド初期の映画、邦画であれば戦後間もないころからの映画を浴びるように観ました。「男はつらいよ」シリーズを全部観たのもこのころでした。平日は時間がないので、毎週末、視聴覚センターに通っていました。
3つめは武道です。高校時代、大分で寸止め空手の町道場に通っていたわたしは、東京に出てきた以上、極真空手がやりたいと思っていました。
最初池袋本部道場に行ったのですが、大学や下宿からの距離が遠くて、結局吉祥寺道場に通いました。大学では少林寺拳法部に入りましたので、授業のない日や図書館で本を読んでいないときはずっと、どちらかの道場にいました。
いま考えると、そういったことで精神のバランスを取っていたのだと思います。嫌いな英語漬けの日々だけやっていたら、そうそうにわたしはドロップアウトしていたでしょう。
結果としてわたしは大学時代、遊んだ記憶がないので、遊びに関するアドバイスはできませんが、大学の授業以外になにか自分が好きなことをいくつかやることをお薦めします。
あとになって分かったことですが、社会人になってしまうと、勉強どころか、本を読む時間や映画を観る時間、武道をやる時間もほとんど取れませんでした。結果論ではありますが、大学時代に上記の3つを心ゆくまでやっておいて本当に良かったと思います。
社会人になったとき、わたしはわたしなりに夢と希望も持っていました。しかし、なかなかに現実は厳しかったです。
まず、希望の部署には配属されませんでした。商社に入りましたので、当然、海外でバリバリ活躍する(英語が苦手なくせに、笑)営業を希望していました。しかし、配属されたのは財務部出納課です。
大量の紙の伝票と格闘する日々です。当時は電子化なんてされていませんから、国内の伝票も手形も小切手も紙です。貿易に使われる荷為替手形やLC(Letter of Credit)も紙。当時の商社は紙が宙を舞う時代です。
いまでは信じがたいと思いますが、プラスチック製のチューブがビル全体にネットワークのように張り巡らされ、その中を筒に収められた書類が行き来するのです。シューターと呼んでいました。いま考えたら、逆に近未来感があります。
わたしはそういった生活に疲れ果てて、夢も希望も失いそうになり、1年経ったときに転職を企てます。穀物関係の仕事をしたかったわたしは、当時東京駅の丸の内にあったカーギルノースエイジアというアメリカの穀物メジャーの日本支社を受けに行きました。
そこにはわたしが勤めていた商社を辞めて入社した先輩がいて、アドバイスをたくさんいただきました。アメリカ人の日本支社長に面接し、合格しました。ただ、そのとき、その社長からいわれた言葉がいまでも頭に残っています。
「いま、弊社に入るのは構わない。でも、本当にそれでおまえは良いのか? 本気で穀物をやりたいのであれば、アメリカの本社に行く方が良い。アメリカの本社で採用されないと、大きな仕事はできない」
たしか、そんなことを言われました。わたしはアメリカ本社に行くためにはどうしたらいいのかを聞きました。社長は、日本支社から本社に行く道はない、と断言しました。あるとしたら、いま勤めている商社でキャリアを積んで、その上で直接アメリカ本社に挑戦する道だけだ、と。
いま考えたら、体よく入社を断られたのかもしれませんが、当時のわたしはすなおにそのアドバイスを受け入れたのです。結局、「石の上にも三年」どころか10年、商社にいました。
商社は辞めて、IT企業に転職することになります。その日本支社長のことばは、業界は違いましたが、結局現実のものとなるのです。
10年の商社生活は辛いことも多かったですが、いまとなっては、そのことばに感謝の気持ちしかありません。商社での10年で、わたしのビジネスの基礎を徹底的に身に付けることができたからです。
おそらく、この春会社に入社して、希望の部署に配属されなかった方は、悩んでおられることでしょう。悩んで自分の思うとおりやれば良いです。わたしも思うとおりやって、わたしの場合結局10年会社に勤めることになりましたが、そうでない道もあると思います。
大事なことは、陳腐なことばではありますが、後悔しないように自分で決断して選択することです。そして、その決断に責任を負うことです。
10年の商社の生活は本当にキツかったです。パワハラもあったし、怒号や電卓が文字通り宙を飛び交う殺伐とした職場でした。
しかし、辞めないで残ろうと決めたのは自分ですし、あのとき転職活動をしたうえで決めたことなのだから、その選択の責任は負わなければ、という思いでなんとか乗り越えることができました。
人生の選択を他人に任せてはいけません。常に自分で選択肢を用意して、自分で決断するようにしましょう。そして、自分で決断したのだから、ひとのせいにしてはいけません。
新社会人に贈ることばはこれだけです。決断をすること、そしてその結果に責任を負うこと。それができれば、何をやっても良いです。
さて、みなさんの人生はこれからです。わたしのようなジジイのたわごとなんて聞き流して、思う存分、自分のやりたいことにチャレンジしてください。心から応援しています。
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