記憶の空白 — 見ているようで、見えていないもの

コラム

昨日は、新しい散歩ルートを開拓しました。さっそく今朝もその道を辿ってみたのですが、ある区間の記憶がすっぽり抜けていることに気づいたのです。

新しく発見した展望台がある緑地を過ぎたところで、道が左右に分かれます。右に進んだのは覚えていました。その道を下っていくと突き当たりがあり、そこでもまた左右に分岐がありました。ところが、その分岐でどちらに行ったか、まったく思い出せないのです。

なんとなく「左だったかな」と思いながらも、下り坂になっている右を選びました。しかし歩いているうちに、風景にまるで見覚えがないことに気づきました。おかしいなと思って引き返し、今度は左に進みましたが、こちらも記憶が曖昧です。

しばらく歩くと、道の右手に霊園があり、遊歩道が整備されていました。その存在すらまったく覚えていないのです。しかも、その遊歩道はなかなかいい雰囲気で、次の週末にはゆっくり歩いてみたいと思えるような場所でした。

さらに道を進んでも、やはり風景に見覚えがありません。自信が揺らいできたとき、ふと左側の家の表札が目に入りました。ちょっと変わった筆風のフォントで書かれていて、それだけははっきり覚えていたのです。

ああ、この道で間違いなかったのだ——そう思ったとき、なんとも言えない気分になりました。私は道を歩いていたはずなのに、どれだけ周囲を見ていなかったのだろうかと。

よく相方とゲームをしていて、「あなたは探索が足りない」と指摘されます。確かにわたしは、道中に落ちているアイテムや箱をよく見落とします。それはゲームの中だけの話だと思っていました。けれど、現実でも意外に見落としているのかもしれません。

もちろん、小説のことを考えながら歩いているからかもしれません。でもそれだけではないような気がしてきました。わたしは“見ているつもり”で、実はちゃんと見ていない。風景だけでなく、人のこと、仕事のことも、もしかしたら同じではないか。

自分では、周囲が見えている方だと思っていました。けれど今日のような出来事があると、その自信がぐらつきます。

そういえば、わたしはニュースや三面記事、人間関係を描いたドラマなどを避けがちです。愛や嫉妬、恨みやすれ違い、そういった感情に触れると、自分の中にも何かが騒ぎ出す気がして、できるだけ遠ざけようとしてしまう。

それはつまり、人間の本質から目を逸らしているということではないか。そんなわたしに、小説なんて書けるのか。

そう思った今日の朝の散歩でした。

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