萩と福岡の違いと、私にとっての価値

コラム

昨日、雨がちの朝だったが、いつも通り散歩をした。天気予報は20分後にザーザーと雨が降るとなっていた。
実際歩いてみると、小雨が降ったり止んだり。一応傘は持っていったが、差す必要も無い程度のものだった。このくらいの雨だと、むしろ濡れて歩くのが気持ちよい。

福岡でも散歩をしているが、萩との一番の違いは、歩くこと自体が目的になっていることだろう。城下町を歩くことそのことに意味がある。町の空気を感じ、風を感じ、そしてその佇まい自体を楽しむ。
私にとって萩を歩くということは、町と一体化し、同化してしまうことを意味する。
照りつける太陽も、降りしきる雨も、場合によっては嵐や雪でさえ、私の人生の一部として受け入れ、自分のものにすることができる。

一方で福岡では、町を歩くことよりも、健康のために歩いていると言って良いだろう。
だから、雨が降るとジムに行く。ウォーキングマシンで歩く。福岡の雨を楽しんだりしないのだ。

散歩が終わると、萩でも福岡でもnoteのエッセイを書く。萩では不思議なことにネタ切れしない。大したエピソードがあるわけではないのだが、感覚的に福岡よりも思索が深くなるからかも知れない。
素材は日々思ったこと、感じたこと、あったことを徒然に書いているだけだ。でも、それが萩だと一語一会の文章になる。

福岡で書く文章は、あまり日常の生活をテーマにしない。深く考えることをしないからだ。どちらかというと即物的なこと。例えば、ガジェットについて書いたり、パソコンについて書いたり、あるいはITの仕事が素材になっている。
なぜそうなってしまうのか。私の心の持ち方、心のキャパシティが萩と福岡では異なるからだ。そのために、福岡で書くものと萩で書くものはテーマも質も異なってしまうのではないだろうか。

午前中は本業のITの仕事をした。溜まっていた仕事も、集中していたせいかいつの間にか無くなっていた。
萩で書斎に居て思うのは、福岡に居るときよりも集中力が高いということだ。気付いたら昼になっている。周りが静かで邪魔するものが無いのか、心が満たされているからなのか。
福岡に居るときは、何かと気が散って、席を立つ回数が増える。猫を撫でたり、トイレに行ったり、脳に糖分をと言い訳しながら甘いものをよくつまみに行ったり。萩に居ると甘いものは一切口にしない。

昼も質素なものだ。白米に味噌汁、豆腐、納豆、ねじりちくわ。これだけで十分だ。福岡に居るときはこんなものでは済まない。日ごろ福岡で食べているものと比べると、少し怖くなるほどだ。
食べるものもこれだけ差が出るのは何故だろう。やはり福岡に居るときの方がストレスを感じているのだと思う。営業との関係、仕事の量、分刻みのスケジュール。それ自体は萩も福岡も変わらないのだが、私の心の持ち方、心のキャパシティが萩と福岡では変わっているのだと感じる。

萩に来てもうひとつ思うことは、テレビを観なくなったということだ。ずっと書斎に居る。書斎で書いているか、読んでいるか、仕事をしているか。
萩でも福岡でも時間は同じ1日24時間だけれど、何故か萩の方が潤沢に時間があるように感じる。萩では物理的に自分だけで、いい意味でも悪い意味でも干渉してくる相方や猫も居ないということもあるだろう。しかし、これもやはり私の心の持ち方、心のキャパシティの違いなのだと思う。

ただ、じゃあ萩だけで良いのかというと、そういうわけではない。独りの生活が永遠に続くとなると流石に寂しいだろう。相方も猫も居てほしい。
空港や基幹駅が近いのも福岡のメリットだ。少なくともITの仕事を本業にしているうちは、福岡から離れることはできない。

私にとって、萩も福岡もそれぞれに価値があり、必要不可欠なものなのだろう。この二つの町が、相互に私を別の角度から刺激してくれ、私の人生を豊かにしてくれているのだと思う。
そういう意味では、いまのように月の半分、毎月2週間程度、交互に萩と福岡を行ったり来たりするのが、ちょうどよいのかも知れない。

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