昨日のエッセイでも書いたが、私は福岡に居ると何とも言えない感情に支配されることがある。恐怖感とも言える気がするし、危機感、もしかしたら焦燥感に近い感覚かも知れない。
不思議なことに萩に居るときはそれを感じることがない。生活パターンや、やっていることに大きな違いはないにもかかわらずである。一体何が違うのか。この違和感の正体を突き止めたいと思った。
敢えて違いを挙げるとすれば、
- 萩では1人で居ることが多い
- 萩ではテレビやYouTubeを全く観ない
- 萩ではゲームをしない
- 萩の方が執筆している時間が多い
といったことくらいであろうか。もちろん、萩の方が好きな城下町であるために、そもそも環境が違うということはある。
最初は、福岡ではITの本業が忙しいことが原因だと思っていた。しかし、萩でもITの仕事はしているし、それに関わる時間が特段異なるわけではない。
ということは、問題は「その他の時間」の使い方だ。ITの仕事以外の時間を何に使っているのか。その時間の使い方にこそ、私の危機感、恐怖感、焦燥感の原因があるのかも知れない。
還暦を迎えた私にとって、残された時間は10年か20年。もっと短いかも知れない。そんな中で、YouTubeやゲームで時間を過ごすことは、時間という貴重なリソースの浪費なのではないか。
いや、本質はそこでは無い。それ以上に恐ろしいのは、自分が自分として存在していない時間を過ごしているのではないか、ということだ。
YouTubeやゲームをしている間、私は空っぽだ。30分足らずのコンテンツを消費すること、ゲームの目標を達成することのみを考え、そこに感情は無い。
ふと我に返ったとき、あれ、今の1時間は何だったんだ、という虚無感とも言える感覚。それは、生きながらにして自己を喪失している行為なのではないのか。そんな恐怖が湧いてくる。
もう一度、萩でどのように時間を使っているか振り返ってみよう。
朝の散歩中、私は何をしているか。歩きながら私は自分の心のなかを彷徨い、思索に耽っている。これは自分自身を深掘りする時間だ。以前これを「歩くジャーナリング」という言い方をしたことがある。
エッセイを書いているときはどうだろう。私にとってエッセイを書くという行為は、自分の中に埋もれている感情、無意識下の想念など心の内側を探ってテーマを掘り出して、それを形にしていく作業だ。
猫を撫でている間、私は何を考えているか。もちろん猫のことを考えているが、猫に触れることを通して、自分に語りかけている。猫からもらっている癒やしの意味、過去への想い、これからの心構え、そういった感情のフィードバックを、猫を介して得ているのだ。
小説の執筆はどうだろう。私にとって執筆は、単に文章を書く作業ではない。小説の舞台や登場人物は私の心のなかの情景であり、住人であり、紡がれる物語は私の心の動きそのものでもある。つまり、私自身を記述していることに他ならないのだ。
自分自身に興味を持つとは、一見自分本位で他者を顧みないことのように思えるかも知れない。しかし、自分の内側を探ることは、決して自己完結的な行為ではない。なぜなら、私の感情も思考も、すべて他者との関わりの中で形成されてきたものだからだ。
自分を深掘れば深掘るほど、他者との関係が明らかになり、他者との関係や他者そのものについて思いを馳せることになる。
自分を認識し、自分として存在し続けることが、他者と真に関わることの前提なのだ。
こう考えてみると、福岡で私がもっとやるべきことが見えてくる。
それは、意図的に「自分が存在する時間」を作らなければならないということだ。
散歩やエッセイ執筆、猫を撫でることは福岡でも出来ているので、YouTubeは観ない、ゲームもしない、もっと1人で居る時間を増やし、その分、小説の執筆に時間を使うことにしようと思う。萩と福岡で時間の使い方で明らかに違うのはその部分だ。
それは、ITの本業のように、単に「やるべきこと」ではなく、「限られた時間を自分として生きるための生存戦略」なのだ。
もし、あなたも、漠然とした不安や焦燥を感じているのなら、それは自分を振り返る時間、自分を深掘りする時間を失っているからかも知れない。自分にとって、「限られた時間を自分として生きるための生存戦略」とは何なのか、一度考えてみてはどうだろうか。
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