眠狂四郎という美学 — わたしが片岡孝夫を愛する理由

コラム

昨夜、YouTubeを眺めていたら、懐かしいタイトルに出会いました。『眠狂四郎』。

言わずと知れた柴田錬三郎の時代小説を原作とする人気シリーズで、映画・テレビを問わず幾度となく映像化されてきました。偶然目にしたのは、1980年代にテレビ放映された片岡孝夫(現・仁左衛門)主演のドラマでした。

このドラマを初めて観たのは大学生の時。確かテレビ東京で観た覚えがあります。もともとはフジテレビのドラマなので、私が観たのは再放送だったのでしょうか。墨絵のような映像、哀愁をそそるテーマ曲、親戚からもらい受けた小さなブラウン管のテレビを下宿に持込み、毎週楽しみにしていました。

久しぶりに見る狂四郎の姿に、わたしは動画にくぎ付けになりました。やはり、この人の眠狂四郎が一番好きだ。そう思った瞬間、自分の中に眠っていた記憶が蘇りました。孤独で、誇り高く、そしてどこか哀しみを帯びた剣士の姿。彼の物語に、かつてどれほど惹かれたことでしょう。

眠狂四郎という人物には、いくつもの顔があります。

まず、彼は「異端者」です。父はポルトガル人神父、母は日本人の修道女。江戸という時代において、その出自は差別と蔑視の対象でした。だからこそ、彼は人を寄せつけず、剣の道に身を投じます。円月殺法という名の美しくも残酷な剣技は、彼の内面の怒りと絶望、そして静かな誇りの象徴なのかもしれません。

この眠狂四郎を最初に映像として完成させたのは、名優・市川雷蔵でした。1960年代、大映で計12作の映画が作られました。妖艶で美しく、まさに錦絵のような殺陣。雷蔵の狂四郎は、理想化された死の美学でした。本人の早すぎる死と共に、原作の妖しさと美をそのまま銀幕に持ち込んだ功績は計り知れません。

その後も、松方弘樹、田村正和、村上弘明、椎名桔平と、多くの俳優が狂四郎を演じてきました。それぞれに個性があり、それぞれの時代の狂四郎がいたと思います。

たとえば松方弘樹の狂四郎は、野性味あふれる庶民的な狂四郎。田村正和は冷ややかで都会的。村上弘明は安定感があり、時代劇の正統を継ぐスタイルでした。椎名桔平に至ってはVFXでの円月殺法まで披露し、現代的な感覚に富んでいました。

しかし、やはりわたしにとっての狂四郎は、片岡孝夫です。

彼の狂四郎は、美しい。動きの一つひとつに無駄がなく、剣を抜く所作にも静けさと品格があります。演じているというよりも、狂四郎として「そこに在る」という空気をまとっていました。派手な感情表現はありませんが、言葉の端々に漂う孤独の重みが深く胸に刺さります。人を斬ることへの迷いと、それを超えてなお生きる意志。そのすべてを、あの柔らかな声と静かな目線が語っていました。

そして、あらためて思いました。狂四郎のような人物は、いまの時代にもいるのではないか、と。異端とされることに傷つきながらも、ひとりで静かに道を歩いていく者たち。世間と折り合いをつけるより、自分の信じる美しさを守ることを選ぶ人々。

わたし自身は、人生において妥協し、長いものに巻かれ、人の機嫌を伺い、必ずしも自分に正直に生きていたとは言えません。それだけに、どこかで彼の姿に憧れ、また自分の中に彼を見ているのかもしれません。

眠狂四郎は、決して過去のヒーローではありません。時代を越えて、「孤独を抱えた美しき者」の象徴として、わたしたちの中に息づいています。優れて現代的な課題を抱えている人物なのです。

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