昨日は出張の疲れか朝起きられず、散歩をお休みしてしまいました。今日は、曇り空であるものの雨が降っていなかったので、その隙を狙って歩いてきました。
朝の散歩が習慣になって久しいですが、わたしの散歩は時間にして1時間。大きく2つのパートに分かれています。1時間のうち前半30分は街の中を歩きます。後半30分は公園の池の周りを歩くのです。
街を歩く時間は、いわば「目覚めの儀式」と言えます。まだ寝惚けた頭を、上りかけの朝陽や新鮮な空気ではっきりとさせていきます。時々すれ違うひとたちとは朝の挨拶を欠かしません。街の風や雨の匂い、足元の土の感触、五感を総動員して季節の気配を感じとります。
途中にある地の神様を祀った神社で手を合わせて、毎日の生活が平穏であることに感謝を捧げます。わたしは特に宗教を信じているわけではありませんが、地の縁、人の縁、猫の縁は大事にするようにしています。住むところとの出会い、人との出会い、わたしにとっては家族同様である猫たちとの出会い。神社の神様に手を合わせるのは、住んでいる土地とのご縁を大事にしたいからです。ある意味こうやってわたしは自分の心を整えているのかもしれません。
ちょうど神社で折り返す形になって、家の方に戻ります。近所の公園は大きな楕円形の池に沿って造られており、公園の半分は池、半分はグラウンドになっています。池には鳥や魚が棲んでいて、様々な草木が自生しています。季節によってその生き物たちも様々に変わって、多種多様な季節感を楽しめます。
公園は、池とグラウンドの外周に沿った遊歩道を歩きます。1周だいたい1キロメートル、時間にして10分少しです。公園に着いたときにはだいたい散歩を始めて30分を経過していますから、3周するとちょうど1時間の散歩になります。
公園を歩く時間は、いわば「創造のための時間」です。池の周りを歩きながら、頭を真っ白にします。すれ違う人もいますから、最低限の注意を払いますが、ほぼ無意識で歩いている状態です。心は身体からふわりと離れ、思考は自由にさまよいます。仕事の構想、小説の登場人物の声、エッセイの構成など、無意識であればあるほどいろんなアイデアや発想が降りてきます。
たとえば、今朝は今書いている小説の謎解き部分について、ひとつヒントを得ることができました。机の上でアイデアを捻っているのとは異なる、直感や本能に近いひらめきが得られるのも散歩しているときです。散歩の前半で外界にひらいた意識が、後半には内面の世界にひとつずつ落ちてきて閉じていく、そんな感覚です。
こうしてみると、わたしにとって散歩とは、ただの運動ではなく、精神の整流装置であると言っても良いかも知れません。からだとこころを整え、今日一日を充実させるための時間。この1時間が日々の営みを支えていると言っても過言ではないなと思います。
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