昨日、アマプラで公開されていた映画『教皇選挙』(原題:Conclave)を観ました。この映画は、カトリック教会の総本山・バチカンのトップに君臨するローマ教皇を決める教皇選挙<コンクラーベ>について、その秘密のベールに覆われた選挙戦の内幕を描いた作品です。公開中に実際にローマ教皇が亡くなったこともあって、話題になりました。
コンクラーベについては、以前ダン・ブラウンの小説『天使と悪魔』でも描かれ、トム・ハンクス主演で『ダ・ヴィンチ・コード』の続編として映画化されました。しかし、この2作品は性格もアプローチも全く異なります。『天使と悪魔』がハリウッド的なアクション・サスペンスであり、秘密結社イルミナティが登場したり反物質爆弾というSF的要素も含まれていて、バチカンやローマの観光名所を巡る冒険活劇として描かれていました。
しかし、『教皇選挙』は静謐な密室劇であり、枢機卿たちの心理的駆け引きや政治的・思想的対立という古くて新しいテーマを扱ったものです。信仰と疑いという哲学的かつ古典的なテーマはもちろん、多様性やジェンダー平等、SDGsといった現代的なテーマも扱う重厚な作品となっています。
わたしはこういった重厚な雰囲気をもつミステリーが大好きです。例えば、1986年に公開された『薔薇の名前』。コンクラーベが描かれているわけではありませんが、『教皇選挙』との共通点も多いと感じました。時代が異なるとは言え、1327年、北イタリアのカトリック修道院という中世の「宗教施設」が舞台がとなりますし、閉鎖的で神秘的な宗教空間、重厚で荘厳な建築物、宗教的権威と世俗的権力の交錯など、雰囲気を同じくしています。
テーマも似ていると思います。信仰と理性の対立、宗教的権威への疑問、「笑い」や「疑い」といった人間的要素の扱い、知識と権力の関係といったテーマは『教皇選挙』の中でも重要な要素となっています。ただ、謎解き、ミステリーとしては、『天使と悪魔』の方に近いかもしれません。『教皇選挙』は謎解きよりも人間関係や人間そのものに対して深掘りされています。
『天使と悪魔』のトム・ハンクスも『薔薇の名前』のショーン・コネリーも好きな俳優ですが、『教皇選挙』の主役、ローレンス枢機卿を演じたレイフ・ファインズも大好きな俳優です。最近では『ハリー・ポッター』シリーズのヴォルデモート役や『007』シリーズのM役が有名かもしれませんが、もともとは舞台俳優で、1993年の「シンドラーのリスト」では冷酷なナチス親衛隊将校アーモン・ゲートを演じ、アカデミー賞の助演男優賞にノミネートされています。個人的に好きな『イングリッシュ・ペイシェント』ではアカデミー賞主演男優賞にノミネートされました。
レイフ・ファインズの抑えた重厚な演技が素晴らしかったです。自分は聖職者では無く管理者であるということを自覚して、その「天職」に徹しようとします。わたしは以前から、天職とは、自分で探すものではなく、他人が探してくれるものだと思っています。その人の価値が自ずと仕事を選ばせるのです。周りの人がこの人ならできる、という仕事が回り巡ってくるものです。それが天職です。
なので、やりたいことが天職であるとは限りません。それが一致している幸運な人もいますが、普通は一致しません。レイフ・ファインズ演じるローレンス枢機卿も同様です。恐らく、彼は言葉とは裏腹に、心のどこかでは聖職者でありたいと望んでいるはずです。しかし、それを自ら打ち消してコンクラーベというプロセスを管理する「管理者」に徹しようとします。しかし、政治はそれを許さず、彼が教皇の有力候補になります。
彼自身が自分の名前を投じた瞬間、爆発が起きたのは象徴的です。それはまさに神の与えたもうた「天職」に反する行為だったからです。その瞬間から大きく流れが変わり、衝撃のラストへ繋がっていきます。わたしは映画を観ながら、自分にとっての「天職」とはなんだろうと考えさせられました。他人が自分にやってほしいと望むこと、それが自分の価値であると周りが認めていること。それってなんなんだろう、と。
最後に、映画の結末についてコメントしておきましょう。わたしは政治や思想的には右でも左でもありません。ばりばりの資本主義者でも無ければ自然崇拝者でもありません。わたしは常に是々非々でありたいと思っています。それがずるいとか、日和見主義であるとか、風見鶏だという人もいるかもしれません。
でも、世の中に絶対なんてものはありません。善悪や正義だって置かれている立場によってどうにでも変わる曖昧なものです。世の中に白黒はありません。常に濃淡のある灰色なのです。なので、わたしはその時点、その状況に応じて自分が正しいと思うことをやろうと思うし、考えたいと思っています。
映画『教皇選挙』の主人公、ローレンス枢機卿の説教の中にその答えがありました。わたしは、この説教こそ、本質だと感じました。最後にそれをここに転記しておきます。
「There is one sin which I have come to fear above all others: certainty. Certainty is the great enemy of unity. Certainty is the deadly enemy of tolerance. Even Christ was not certain at the end. “My God, my God, why have you forsaken me?” he cried out in his agony at the ninth hour on the cross. Our faith is a living thing precisely because it walks hand in hand with doubt. If there was only certainty and no doubt, there would be no mystery, and therefore no need for faith.」
和訳
「私が何よりも恐れるようになった罪が一つあります。それは確信です。確信は統一の大敵です。確信は寛容の死すべき敵です。キリストでさえ最期には確信を持てなかった。『わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか』と、十字架上の第九時に苦悶の中で叫ばれました。私たちの信仰が生きているのは、まさにそれが疑いと手を取り合って歩むからです。もし確信だけがあって疑いがなければ、神秘はなく、したがって信仰の必要もないでしょう。」
彼は最後に言います。
Let us pray that God will grant us a Pope who doubts.」(神が私たちに疑う教皇を与えてくださるよう祈りましょう)
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