散歩は歩くジャーナリングである

コラム

5ヶ月ほど前にジャーナリングを始めて、それ以来いくつかジャーナリングについてのエッセイを投稿してきた。
当時、公私共に悩み事が多く、心が落ち着かず、ストレスも溜まっていた時期だった。

何かその状況をコントロールする方法はないか探っていた。
ミドリのノートや手帳に、思いつくままのことを書いてみたり、iPad miniとApple Pencilで頭の中にある気になることを書き出したりしていた。

それが正式なジャーナリングと言えるのかどうかは分からない。ただ、いずれにしても、頭の中にあるものを言語化する、テキスト化するという行為には、間違いなく自分や自分を取り巻く状況をマネージする力があると感じた。
1ヶ月くらいはそれが続いただろうか。

そして、現在。ジャーナリングを続けているかと言うと、実はやっていない。
いつの間にかやらなくなっていた。これは、単に習慣化できなかったのか、ストレスが無くなっただけなのか、正直分からない。
毎日30分程度とは言え、時間を取られることの方が負担になった可能性もある。

しかし、今朝。いつもの散歩中に、突如閃くように気付いたのだ。
ジャーナリング、やっているじゃないかと。

私にとってジャーナリングとは、頭の中のモヤモヤしたものを吐き出すプロセスだ。吐き出すというのは、言語化、テキスト化することだ。
それは、言い換えれば、自分に自問自答することだ。

それがまさに、散歩だ。私にとっては、散歩がまさにジャーナリングの役割を担っている。
歩きながら、頭の中には様々な事が浮かんでは消えていく。例えば、気になっている来週のお客様との打合せのこと。
お客様の課題、デモシナリオ、デモの実装。漠然と不安に感じていたことに対するアイデアが浮かんでくる。これらを捕まえて言語化し、整理する。

特に気になるものは、Apple WatchのDraftsに音声入力している。
家に帰ってから、DraftsをiPad miniで開き、歩いている途中では舌足らずであったことを書き足す。

打合せのことであれば、具体的なタスクとしてToDoに登録される。また、それが小説やエッセイのネタであれば、Draftsからアクションを通じてObsidian保管庫に登録される。
Obsidian保管庫に登録されたものは、取捨選択された上で、小説やnoteのエッセイに昇華される。まさに、今書いているこのエッセイはそうやって生まれた。

ある意味、私にとって理想的なジャーナリングルーティンが完成しているのである。

ジャーナリングとは言語化であると述べた。Draftsで音声入力することはまさに言語化であるし、それをエッセイとしてテキスト化し、タスクとして身体化するというプロセスは、もしかしたら、最も理想的なジャーナリングと言えるのでは無いだろうか。

「散歩ジャーナリング」を始めるのに、難しいことは何もない。ただ早起きして歩いて、頭の中に浮かんだことをキャッチするだけだ。
大事なことはキャッチすること、キャッチしたものをそのままにしないで、必ず頭の中で言語化すること。周りに人がいなければ口に出すのも良い方法だ。

特別なツールは必要ないが、私のようにApple Watchを使っているのなら、Draftsというアプリは試しても良いと思う。頭の中に浮かんだものを口に出して、まさに言語化、テキスト化できる。

実践のコツとしては、やはりルーティン化、習慣化することだろう。朝目が覚めたらとにかく散歩に出かけるように身体を慣らせる。頭が働いていなくても、身体が動くようにしておく。私が散歩によるジャーナリングを続けられた最も大きな理由は、毎朝の散歩を習慣化したからだ。
これが私なりの『散歩ジャーナリング』の核心だと思う。

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