心のなかのふるさとと、萩

コラム

朝5時、日課の散歩に行ってきました。昨日までの大雨が嘘のように、今朝から青空が広がり、晴れ上がっています。先日、朝が来るのが遅くなったと書きましたが、そんなことはなかったです。今日はいつも通り朝が来ていました。暗かったのは、やはり天気が悪かったからのようです。

でも、空はもう夏の空ではありません。高い空を何の鳥か分からないけれど、十数羽の群れで飛んで行く姿は夏のものではないように感じました。雲も明らかに、いわし雲です。山の端に小さな入道雲のようなもくもくが湧いていますが、主役の座を降りたように遠慮がちでした。

もともと萩は、空が高く広い町です。伝建地区であることもあって、高い建物がないし、山も三角州を後ろから支えるように控えているだけなので、ちょっと視線を上げると、真っ青な空が広がっています。夏の空は藍色で、身体まで染まってしまいそうなほどに濃い青でしたが、今の空は柔らかい瑠璃色です。

この空を見ていると、子供のころを思い出します。わたしの子供のころの想い出は、常に佐賀関の海に還っていきます。佐賀関は、大分県の北東に位置する海の近くの町です。別府湾から大分市へ、海岸線に沿っていくと、ちょっと突き出た岬のような場所があります。そこから海岸線は南へ下っていき、複雑なリアス式海岸を形作っています。そのリアス式海岸のちょうど入り口に当たるところです。

子供のころ、夏になると佐賀関にある祖父母の家に行きました。夏の間中、そこでいとこたちと暮らすのです。朝起きてラジオ体操し、そのあと涼しいうちにみんなで宿題をします。朝ご飯を食べ終わったら、海に向かいます。祖父母の家は海に面していて、歩いて30秒で海です。わたしたちは祖父母を「お舟のじいちゃん、お舟のばあちゃん」と呼んでいました。

午前中は時間を忘れて海で遊びました。子供のころのわたしが真っ黒だったのはそのせいです。昼になると、祖母が作ってくれた饅頭を食べます。小麦粉で作った白い生地にこしあんが入っているだけのシンプルなものですが、これが美味しくて、何個も何個も食べた記憶があります。デザートは、もちろんスイカです。

午後は、昼寝します。早めに目が覚めればもう一泳ぎしますが、だいたい目が覚めると午後3時を過ぎていて、くらげが出てくる時間帯になります。浜辺で遊んだり、磯遊びをしたりして過ごしました。夕方になると、また祖母手作りの食事が待っています。

いまでもわたしの記憶に残っているのは、アジ寿司です。佐賀関の海で採れたアジで、小さな小アジと呼ばれるものです。小さいので干物にすることが多いです。この小アジを寿司に使うのです。アジの反対側にはしその葉が貼ってあって、酢飯との相性が最高でした。こちらも何個食べたか覚えていないくらい食べました。

食後は、また海辺に出て、花火をしました。近所の雑貨屋で花火が詰まった大袋をいくつか買って、それを一晩で使い切るのです。1日終わると疲れ果てて寝てしまいます。そして、翌朝、またラジオ体操をして、海に行って、という1日が繰り返されます。この繰り返しが永遠に続くのではないかと、子供のころは思っていました。

しかし、当たり前ですが永遠には続きません。いま、祖父母は亡くなってしまい(驚くべきことに、わたしが当時の祖父母と同じ年齢になっているのです!)、佐賀関の家も人の手に渡りました。祖父母の死後、この家は長男が相続したのですが、叔父が売り払ってしまったのです。当時それを東京で聞いたわたしは、悔しくて悔しくて、号泣したことを今でも覚えています。

わたしにとって、大分に、あの夏を思い出させるようなものは、残念ながらありません。祖父母も、佐賀関の家も、あの浜辺も、もう過去のものになってしまい、わたしの心の中だけにありました。

お盆のせいでしょうか、わたしは今朝、泣きながら、祖父母のことを思い出しながら、萩の城下町を歩きました。当時のことが思い出されて、涙が止まらないのです。悲しいのではありません。ただただ、涙が出てきました。そして、わたしは、理解したのです。何故わたしが、いま萩にいるのか。

そうです。ここにあったのです。あの時の夏が。祖父母が。佐賀関の家が。海が、浜が。萩にあったのです。

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