最近、夫婦間や恋人間、あるいは見知らぬ他人への暴力事件が続いている。その多くに共通するのは、加害者が「相手から嫌われている」「攻撃されている」という強い確信を持っていたことだ。
しかし、本当にそうだったのだろうか?
私は違うと思う。その「確信」の多くは、思い込みに過ぎないのではないか。
その誤った「確信」を持たないようにする方法はないだろうか。私は、その鍵が人間関係から自分を守る方法を身につけることにあると考えている。
確かに、人間関係というのはやっかいで、取扱に間違うととんでもないことになる。
私も若いころから人間関係には悩まされたことが多いが、この歳になってその扱い方、特に人間関係から自分を守る、そして周りの人を守る、ひいては社会を守る方法というのがなんとなく分かってきた。
人間は社会的な動物だ。コミュニケーション無しでは基本的には生きていけない。これは、人間がまだ狩猟採集生活をしていた頃、単独では猛獣に勝てず、集団で協力することでしか生き延びられなかったことに由来する。
その結果として、人間は、空気を読む、察するという能力が身に付いた。危険を察知し、仲間の顔色を見て調子を合わせてコミュニティ全体を維持することを優先する。それが生き残っていくために最も合理的だからだ。
従って、どんなに鈍感な人でも、人の考えていることを察することはできると私は考えている。あなたが感じているその感覚、直感は、だいたい合っているのだ。
隣に居る人が、「この人嫌いなタイプだな」と思っていると、もしあなたが感じたのであれば、多分それは合っている。隣の人はあなたのことを良からず思っている。
しかし、ここで大事なことがある。
その直感は合っているのだが、忘れてはならないのは、隣の人はそれ以上あなたに興味が無いということだ。残念ながら? あなたの優先順位は隣の人にとって、今日の晩ご飯よりも低い。電車を降りたら完全に忘れ去られる。
人間は、生き残るために社会性を身に着けた。そして、社会で生きるために必要な、もうひとつのことを身に着けている。
それは、「すぐに忘れる」ということだ。たいていの人は、思ったこと、感じたことは次の瞬間に忘れている。重要度が低ければなおさらだ。
なにが言いたいかというと、普段の生活の中で、あなたは様様な悪感情や中傷の中で生きている。あなたがそれを感じているとしたら、それはおそらく合っている。
しかし、それは一瞬の揮発性のものだ。パソコンのメモリは再起動するまでは情報を記憶しているが、人間のそれはもっと短く、速い。
従って、あなたがネガティブなことを感じても、気にする必要は全く無い、ということだ。そのまま流し去ってしまって良い。何故なら、隣の人も次の瞬間、別のことを考えているからだ。
それを、いつまでも永遠に残っていると思い込んで行動すると、やっかいなことになる。被害妄想に取り憑かれ、気持ちはかき乱され、思い悩むことになる。
不思議なことに、人間は自分のこととなるとなかなか忘れない。自分の生存が第一の優先順位だからだ。
隣の人のネガティブな感情は、隣の人にとっては一瞬の通りすがりのものに過ぎない。自分にとって優先順位を付けるまでも無い程度のことだ。
しかし、それを感じとった側は自分のことなので、優先順位の最上位に持ってくる。自分の生存に関わることだから当然だ。
このあたりに、最近の悲劇的な事件の原因があるのではないだろうか。
相手の「一瞬の感情」を察知したとき、それを「永続的な敵意」だと思い込んでしまう。「自分は嫌われている」「バカにされている」「攻撃されている」——そう確信してしまう。
しかし実際には、相手はもう忘れている。あなたへの優先順位は今日の晩ごはん以下だ。
ところが、思い込んだ側はそうはいかない。自分のことだから、記憶から消えない。
「あの時の冷たい視線」「あの言葉の裏の意味」——思い返すたびに、新しい「証拠」を見つけてしまう。被害妄想は膨らみ続ける。
そして最終的に、「自分を守るため」という大義名分のもとで、相手を攻撃してしまう。あるいは、世界に絶望して自暴自棄になる。
夫婦間の事件も、無差別殺傷も、その多くは「相手の本当の気持ち」と「自分が思い込んだ気持ち」の乖離から始まっているのではないか。
最後にもう一度言おう。あなたの存在は、あなた以外の人にとって、優先順位はほとんど無いに等しいくらい低い。
そんな古石に蹴躓いたようなことは忘れよう。そのまま流してしまおう。
それだけで、あなたは加害者にならずに済む。
そして、周りの人も、あなたの穏やかさに救われるかもしれない。


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