ゆらぎの季節に思うこと

コラム

5時に起きて、いつもの通り散歩しました。散歩の前にApple Watchを身に付けて天気を確認すると、予報は雨。気温は20度を越えていました。

昨日までは長袖長ズボンのトレーニングウェアを着ていましたが、今日は半袖、短パンにすることにしました。玄関を出た瞬間、ポツポツと雨が降り出しました。まさに天気予報通り。

ほんのわずか、迷いました。傘を差して散歩に出るか、それともジムに行って歩くか。結局、ジムに行くことにしました。会社から補助が出ているとはいえ、最近外ばかり歩いていて、ジムに行っていなかったので、良い機会です。

ジムでは久し振りにウォーキングマシン。『007 カジノロワイヤル』をiPhone 16eで観ながら1時間、歩き続けました。外とは違って、風も感じられないし、鳥の声や朝の香りもありませんが、7,000歩から8,000歩ほど、歩くことには変わりありません。

ちょうどジェームズ・ボンドが新型飛行機の爆破を阻止したところで1時間が経ちました。外に出てみると雨は止んでいて、これなら外を散歩しても良かったな、とちょっと後悔しました。

いつもの朝ですが、いつもとちょっと違う朝。そのことが妙に心に残りました。朝起きたときの選択肢で、この1時間の過ごし方が変わり、ある意味世界が全く違うものになったわけです。

いま、季節は春から夏へと向かう途中にあります。春はとうに過ぎて、ようやく気温が上がり、夏の予感を感じるようになりました。しかしどこか中途半端で、日や時間帯によって寒暖差があり、服装にも迷いが生じ、毎朝の気分も定まりません。

でも、考えてみたら、この中途半端さ、言い換えると「ゆらぎ」の中にこそものごとの本質があるのかもしれません。定まらないということは、どちらにもなれる、ということです。季節も人間も、決めつけすぎずに、ゆらぎながら生きていくのが本来なのでしょう。

今日、短パン半袖を着たわたし、ジムに行ったわたし、そして長袖長ズボンを穿いて外を歩いていたかもしれないもうひとりの自分も、どちらも「正解」なのです。むしろ、状況によって、感覚によって、変えられる柔軟さ、それがいまのわたしを支えているのです。

日々は、絶えず選択の連続です。正しいかどうかよりも、自分にとって納得できるかどうか。季節のゆらぎの中に身を置くように、わたしたちの心にも揺れがあって良いのです。昨日と違う自分を責める必要はないし、今日の自分の選択を未来の自分が見直したときに、「あのとき、よく決めたな」と思えたらそれで十分なのでしょう。

こうして文章を書いている今、空を見上げてみると、雨が降るのか降らないのか分からない、曇天が広がっています。今日の仕事の予定を見ると、びっしりと埋まったスケジュールが並んでいます。どれも、どのように転び、どのように収束するのか分かりません。

雨が降ろうが降りまいが、仕事がどういう結果になっても、どちらでもいいのです。ただ、今日という日を、わたしにとって「良い日だった」と言えるように、小さな決断を丁寧に重ねていきたいと思います。

コメント

タイトルとURLをコピーしました