昨日、ひとつの物語が私の手を離れていった。
散歩をしながら着想し、アイディアをふくらませて、書き続けてきた半年。主人公たちが動き出し、成長し、未来に向けたエンディングに収束していくプロセスを書くことは、本当に楽しかった。
一方で、もう少し書きたかった登場人物たちもいた。彼らの人生は片鱗しかこの物語の中で見せることができなかった。紙面に咲いた割合は小さくとも、彼らにもひとつひとつの人生があるのだ。
今までいくつ物語を書いてきたか、数は正確に覚えていないが、20や30はあったように思う。様様な登場人物がいて、主役も敵役もヒロインも、それぞれの人生があった。しかし、現在のところ、彼らが日の目を見ることはない。
私は物語を書くたびに、彼らに申し訳ないという気持ちを禁じ得ない。私の能力不足のために、彼らは私と一部の編集者の目に触れただけで、堆く積まれた原稿の底で永遠の眠りにつく。
私の歩いてきた道は死屍累々だ。
だから、私は過去の原稿を読み直すことはしない。彼らの屍体を暴くような気がして、直視することができない。
彼らは腐乱していたり白骨化していたりする。中にはもうその痕跡すら残していない登場人物もいる。
私は物語を書く前に、登場人物のプロフィールを必ず作るが、それに「死亡」というサインを書き込んでいるような気がするのだ。
昨日私の手元を離れた物語の主人公たちも、もう過去のものだ。彼らが今後どうなるのかは誰にも分からない。またひとつ、ボツ原稿という名の墓標の元に眠ることになるのか、それとも生き生きとした活躍を見せてくれるのか。
いずれにしても、もう彼らは私のものではない。彼ら自身が自分たちの行く末を決めるだろう。もう私の手は届かない。
しかし、それでも私は今日からまた、新しい物語を創っていく。
新しい登場人物も決まった。舞台も決まった。結末だけがまだぼんやりとした霧の中にある。今日からその霧の中を彷徨い、埋まった化石を丁寧に掘り起こし、それが本来ある姿をどれだけ忠実に再現できるか。復元できるか。全て私の手腕にかかっている。
書いている間は、彼らは生き生きと人生を謳歌し、恋をし、愛を育み、そして死を迎える。
彼らの人生は私の人生でもあり、彼らの死は私の死でもある。彼らを書くことで、私は自分の中の未知の宇宙を探索し、彷徨うことができる。そして、もしかしたらその中に、価値のある宝石を見つけることができるかも知れない。今まで気づいていなかった自分の中の可能性を見つけることができるかも知れない。
実際、物語をひとつ書き上げるたびに、自分の中に新しい発見がある。
例えば、中世を舞台にしたファンタジーを書いたときのことだ。主人公とヒロインが愛を交わす場面で、私は二人が指一本お互いに触れることの無いシーンを書いた。最初はよくある濡れ場を書くつもりだった。しかし、二人は朝を迎えるまで、ただ、星の瞬く山脈を目の前に、そこに並んで座っているだけだった。私にとっての愛とは、そういうものなのだと、その時気づかされた。
それらは、場合によっては克服すべき弱さであったり、時には何ものにも揺るがない強固な意志であったりする。それらは私の人生において、大事な心の拠り所となる。
だからこそ、私は創作を続ける。書き続ける。私が生きている限り、彼らの存在意義が消えることはない。これからも彼らと一緒に生きていきたいと思う。
とは言え、彼らにいつも原稿の墓標の下に眠ってもらうばかりでは申し訳ない。願わくば、彼らの人生に少しでも日が当たることを祈りながら、これからも書いていこうと思っている。


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