東京から昨日福岡に帰ってきました。大事なひととは会えましたし、十分意義のある自腹上京でした。
でも、なぜか東京に来る前後から体調が急降下するのですよね。もともと春はあまり体調が良くなくて好きな季節ではありません。今年は60年目にしてついに花粉症になったのか、ずっと頭痛はするし、鼻は詰まっているし、喉は痛いしで、散々でした。
幸い熱はなかったので、仕事も夜の会食にも不都合はありませんでした。前回12月に上京したときも調子が悪く、その前、夏のときも体調がいまひとつだった記憶があります。その前の夏に上京したときなど、コロナに罹ってしまって、ずっと寝こんでいました。
東京には30年いたので、嫌いな場所じゃないんですが、東京のほうから嫌われてしまったのかもしれません。今回、久し振りに東京で通勤してみて、確かに地下鉄など便利なのですが、やはりあの人間の多さには参りました。もちろん福岡も多いです。でも、なんというか、厚みというか密度というか、ちょっと質の違う多さですよね。
一方でちょっと不思議だったのが、通勤時の人間の量はとんでもなく多いのですが、例えば今回行った有楽町や日比谷とかはむしろ人通りが少ないのです。むしろ福岡天神のほうが多いくらいでした。
今回訪れた飲み屋街は、新橋、中野だけでしたが、前よりも人間が少なく感じました。決して寂れているわけではないんですが、びっくりするくらいいる、という印象はありません。
いま、東京ってどこに人間がいるんでしょうね。朝晩の通勤時間にあれだけ目にする集団が、それ以外の時間帯にはどこにいるのでしょう。不景気で家に帰っているのでしょうか。なんだか不思議な気がしました。
ひとつは、わたしがもう福岡の人間になってしまった、ということなのかもしれません。どういうことかというと、わたしが「生きている人間として」目にしているのは九州や四国などの仕事でお付き合いのあるひとびとです。
生きている生身の人間として見えているので、実体があります。しかし、東京の人間は、なんだか空想のなかのようで、実感があまりないのです。昔の上司や部下たちは別です。まだ彼らには実体があります。
でも、それ以外はその他大勢の抽象的な概念でしかないのです。もしかしたら、わたしが毎回東京に行くたびに体調不良になるのも、身体がそれを敏感に察して反応しているからなのかもしれません。
それはなんとなく寂しいような気もしますが、まぁそんなものかな、という気もします。よくよく考えたら、人間は身の回りに対してそれを実体と感じる範囲は異なるものなのでしょう。
東京に住んでいても、人付き合いの少ないひとであれば実体と感じる人数は少ないでしょうし、それ以外の人間はその他大勢の抽象的存在にしか過ぎません。なんとなく、その抽象度の度合いが、いまの日本を特徴付けているような気がしました。
都会と地方の分断、都会における多様性と世代間の分断、所得格差による分断。結局のところ、分断の相手側は抽象的なひとかたまりの人間たちなのです。そしてそれを仮想的とみなして攻撃する。憎む。嫉妬する。
あれ、別に日本だけではないのかな。いま、世界で起こっていること、そのものですね。分断というのはお互いを知らないこと、お互いに実体を感じられないことから起こることです。分断の種はそういうところにあるのでしょう。
わたしでさえ、普通に暮らしていて、東京から福岡に来て3年くらいで、東京との分断を感じるわけですから、ましてもっと距離があったり考え方が異なる集団の間であれば分断の数も種類も深さもとてつもないものなのでしょう。
分断は、人間の性みたいなのかもしれません。むかし、人類が天に届く塔を建てようとしたバベルの塔の物語がありましたね。神は人間の傲慢さを咎め、言語を混乱させて人々の交流を妨げ、塔の建設を妨げたという話です。
これは、別に神様がやったことなのではなく、人間が自分で勝手に自分の性でそうなったことを、神様のせいにしただけないのではないのかな、そんな気がしてきました。
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