昨日、モンハンに飽きたわたしは、何年かぶりに『デモンズソウル』のオリジナル版を起動しました。とは言っても、PS3はもう手元にありません。過去作も遊べるPlayStation Plusのプレミアムプランを通じてプレイしました。
少し緊張に似た気持ちがこみ上げてきました。起動画面が現れ、あの「あーあー」で始まる重厚なBGMが流れると、過去の記憶が一気に押し寄せました。
あの頃、自分がどんな場所にいて、どんな想いでこのゲームをプレイしていたか。そのすべてが、音楽と映像の裏から立ち上がってきました。
『デモンズソウル』は、フロムソフトウェアが2009年に世に送り出したアクションRPGです。いわゆる“死にゲー”というジャンルの礎を築いた作品であり、その理不尽さすら美学とされる独特のゲーム体験は、今なお語り継がれています。
この作品がなければ、『ダークソウル』シリーズも『エルデンリング』も生まれていなかったでしょう。このゲームには、わたし個人としても特別な思いがあります。ただの娯楽ではありません。人生の転機をもたらした作品だと言えるのです。
というのも、『デモンズソウル』を通じて、わたしはいまのパートナーと出会ったからです。
3-1の塔の牢獄で迷子になっていたわたしを、白霊として救ってくれた彼女。その後、攻略情報を共有するTwitterで偶然再会し、互いのプレイスタイル——慎重に探索を楽しむことを重視する姿勢が似ていることに気づきました。
オンラインでの協力プレイを重ねるうちに、ゲーム内での息の合った連携が、やがて価値観の共鳴へと変わっていったのです。初めて実際に会った日、焼鳥屋での会話は自然とゲームの話題から人生の挑戦へと広がり、あの迷宮のような世界で学んだ忍耐と探究の精神が、二人の関係の基盤になりました。
今でも節目節目に『デモンズソウル』を一緒にプレイする私たちにとって、このゲームは単なる娯楽を超えた、人生を共に歩む道しるべとなっています。
ゲームを再びプレイしながら、当時の自分と今の自分が静かに対話しているような感覚を覚えました。あの頃は、何度も死ぬことに苛立ち、コントローラーを投げ出したくなることもありました。
ボーレタリア城の最初の大階段で何度死んだことか。青目先生はともかく、序盤で赤目先生に対峙したときは、本気で絶望を感じました。
今は、むしろ失敗することすら味わい深く感じます。ひとつひとつの敵の動きに丁寧に対処し、環境の変化を慎重に読み解く。“焦らないことが勝ちへの道”というこのゲームの哲学が、今の自分により深く染み込んでくるのを感じました。
懐かしさという感情は、単なる思い出の再生ではありません。それは、自分自身の変化を照らし出す鏡でもあります。『デモンズソウル』の荒廃した世界の中に身を置きながら、わたしはふと、あの頃の孤独や焦燥感すらも今では愛おしいと感じていました。それらはすべて、今のわたしをつくるピースだったのです。
ゲームが人生を変える。そんなことがあるのかと、昔なら冷笑していたかもしれません。でも、今ははっきりと断言できます。ある、と。
作品を生み出した人々の熱意、技術、そしてオンラインで同じ冒険をしているプレイヤーたちの魂が、人生に深く食い込んで、渾然一体となるのです。『デモンズソウル』は、わたしにとってそういう存在です。
十数年を経て、再びこの世界に足を踏み入れました。変わらないものと、変わってしまったもの。ゲームの中の世界は凍結されているように見えますが、そこに向き合う自分は確実に変わっています。その変化を自覚しながら再び挑戦することは、どこか儀式のようでもありました。
終わりの見えない迷宮の中で灯火を探すように進んでいたあの頃。そして今、還暦という人生の節目に、あの灯火を抱きながら歩いている自分。ゲームという世界での旅は、人生という現実の旅とも密かに重なっているのかもしれません。